
南北朝時代の14世紀に東福寺の住持によって開創され、
東福寺五塔頭の一つとして興隆し、その後一時衰退するも
中興の祖、大機慧雄(だいきえゆう)により再興されました。
枯山水の庭は当時の面影を伝えています。
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- 2019/07/19(金) 00:35:54|
- 京都 洛南
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天得院住持だった「文英清韓」(ぶんえいせいかん)が、豊臣秀頼からの依頼で方広寺鐘銘を撰文しましたが、その中の「国家安康、君臣豊楽」の記述が徳川家を呪うものとして徳川家康の怒りを買い、天得院は取り壊されたそうです。実は、「黒衣の宰相」と呼ばれ、徳川の側近として権勢を欲しいままにした政僧「以心崇伝」の計略でして、鐘銘が大坂城を攻める口実にされてしまったということです。
以心崇伝はその後南禅寺塔頭金地院に住持したので、金地院崇伝と呼ばれることになりますが、当時の臨済宗は武士の政治の世界にまで深く関係していたのですねー。
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- 2019/07/16(火) 07:00:35|
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